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日本史とともに歩む、京都の神社仏閣 第6弾

日本史とともに歩む、京都の神社仏閣 第6弾

 皆さん、こんにちは、こんばんは。本日は円町校の江島が【日本史とともに歩む、京都の神社仏閣】第6弾をお送りさせていただきます。

慈照寺(銀閣)

 本日の1か所目は、京都東山にある、慈照寺です。一般的には「銀閣寺」という名で知られている寺院ですね。記念すべき本シリーズ第1弾の1発目に紹介した「金閣」に対し、江戸時代にこう名付けられたそうです。室町時代8代将軍である足利義政が作った山荘(東山殿)をもとにして、彼の死後、臨済宗相国寺派の寺院となりました。金閣寺に比べると見た目のインパクトこそ劣りますが、東山文化を代表する建造物の筆頭候補に挙げられるものとしてかなり有名なんですよ。

 3代将軍の足利義満とは対照的に、義政は将軍としての器はイマイチ、というか興味が全然なかったようで、文化的なたしなみにこそ美徳を感じていたそうです。将軍職に就いたのは15歳、本音ではすぐにでも将軍職を降りたいって考えていたみたいですよ。29歳になっても奥様との間にお世継ぎが生まれず、義政は、既に将軍職への道をあきらめ出家していた弟(義視)に、次代の将軍になってくれと頼みます。「子どもが生まれるわけない」と高を括って、嫌がる弟をなんとか説得したのですが…ここでフラグをきっちり回収。元気な男の子が生まれてしまいました。奥様である日野富子という人は、いわゆる「鬼嫁」でして、弟の次代将軍案を一掃します。「息子が次代将軍に決まっているでしょ」と言って、結局そのまま夫婦喧嘩。紆余曲折ありましたが、割と早い段階で9代将軍は息子の足利義尚に決定し、一件落着だったのですが、この夫婦喧嘩に乗っかった部下たちが、京都中を巻き込む大戦乱を起こしてしまった。中世最大の戦乱である「応仁の乱」です。火元(夫婦喧嘩)は大したものじゃなかったのに、予想を超えてはるかに燃えさかってしまったがために、義政は、応仁の乱を引き起こした、まるで戦犯のような扱いをされることがあり、ちょっと可哀相ですね。一番の見どころは慈照寺東求堂。東山殿の遺構として、最古の書院造の建築物として輝きを放っており、義政の美的センスを感じることができるものになっています。

高台寺

 2つ目に紹介するのは、高台寺です。京阪電鉄の祇園四条駅から徒歩10分ほどの場所に位置しており、臨済宗建仁寺派の寺院です。本当に京都は臨済宗のお寺が多いですね。さすがは幕府イチオシの宗派。豊臣秀吉の正室である高台院が、秀吉の冥福を祈って建立したことで知られています。高台院って言ってもピンとこないですよね。一般的には「北政所」とか「ねね」という名前で知られている方です。2人は日本史界きってのおしどり夫婦だったのですが、子どもには恵まれませんでした。代わりに豊臣家の人質として預けられていた子供たちをわが子のように可愛がり、その中には加藤清正や福島正則、そして石田三成といった、後に秀吉の重臣となる人物たちもいました。彼らの中には関ケ原の戦いで袂を分かつ結果になってしまう者もおり、悲しい気持ちになりますが(ちなみに、「淀殿」とか「茶々」という名で知られている人物もよく耳にすると思いますが、この人は秀吉の側室です)。様々なところで愛情深き人物として描かれることの多いねねですが、それを随所に感じることが出来る、落ち着いたお寺になっています。入口から左奥の方に位置する、ねねの眠る霊屋(おたまや)というところには、蒔絵と呼ばれる日本の伝統技法を施されたものが残されており、「高台寺蒔絵」という名で、桃山文化を代表する工芸品として知られています。当然、日本史でもよく出題されます。京都の神社仏閣の中でも地味な扱いを受けがちなところですが、歴史に触れるにはとってもいい場所です。

 本日は以上です。お疲れ様でした。

投稿者:江島 祥人

  • 役職
    英語科主任/英語科講師
  • 講師歴・勤務歴
    7年
  • 出身大学
    大阪市立大学経済学部
  • 特技・資格
    特に目立ったものはないです
  • 趣味
    音楽鑑賞
  • 出身地
    京都府
  • お勧めの本
    武器としての決断思考

受験生への一言
初めて出会う事柄に対して、出来る限り「考えて」みてください。自分の価値観と照らし合わせてみて、ああだこうだと「腑に落ちる」まで考えてはじめてそれが知識となり、皆さんの力となります。