ホーム » 京都医塾公式ブログ » 京都医塾講師からのアドバイス » 日本史とともに歩む、京都の神社仏閣 第7弾

京都医塾公式ブログ

日本史とともに歩む、京都の神社仏閣 第7弾

日本史とともに歩む、京都の神社仏閣 第7弾

 皆さん、こんにちは、こんばんは。本日は円町校の江島が「日本史とともに歩む、京都の神社仏閣」第7弾をお送りさせていただきます。

石清水八幡宮

 京都府八幡(やわた)市にある神社で、全国に40,000社以上もある八幡神社のうち、宇佐八幡宮、鶴岡八幡宮(または筥崎宮)と並んで「三大八幡宮」と称されるほどの神社です。応神天皇(という昔々の天皇)の神霊を祀っているのが八幡神社の特徴で、宇佐八幡宮を総本社としてそこから全国に波及していき、現在の数に至っています。八幡宮と聞くと、日本史と絡む部分が比較的多いのですが、石清水八幡宮といえばやはり、源義家でしょう。日本史を学習していない方からすると、「ん?誰よ?」って感じだと思うのですが、超有名人ですよ。

 この頃の時代背景として、律令体制が行き届かなくなり、特に地方で政治の混乱が起こっていました。武力行使で反乱を起こす者もおり、困り果てた民を救ったのは、そう!朝廷・・・ではなく同じく武力を持つ者だったのです。「朝廷なんかより武士の方が役に立つ」という価値観に変わっていくんですね。そんな時期に最も活躍した武士集団が “清和源氏” というものなのですが、源義家はその系統の人物です。彼の子孫には、スーパーカリスマとして名高い源頼朝もおり、私の中では「源氏最強=源義家」という印象を持っています。彼はこの石清水八幡宮において元服の儀(成人の儀だと思ってください)を行い、「八幡太郎」と呼ばれるようになったのです。東北地方で起こった、前九年合戦や後三年合戦で名を残した義家は、「義家様に宿る八幡パワーをどうか分けてもらえませんか」と頼まれ、鎌倉の地にそのパワーを宿すことになりました。それが「鶴岡八幡宮」なんです。後に源頼朝は、源氏最強の魂が宿る鶴岡八幡宮と東北武士達の力をもとに、鎌倉幕府をつくり、一時代を築いていくのです。彼が鎌倉の地にこだわったのも、義家の存在があったからこそ。義家が元服の儀を石清水八幡宮で行っていなければ、鎌倉時代はなかったかもしれませんね。そんな由緒ある神社の紹介でした。

龍安寺

 続きまして、龍安寺のご紹介です。京都医塾円町校から、バスと徒歩で20分ほどあればたどり着くお寺で、室町時代を代表する臨済宗妙心寺派のお寺です。ほんと臨済宗ばかりが並びますね。足利将軍の補佐たる役目である管領(細川・斯波・畠山の三管領は受験必出ですね)を務めていた細川勝元という人物が、譲り受けた山荘に僧を招き入れて1450年に開山したのが始まりだとされています。

 龍安寺を語るうえで欠かせないのが、文化遺産にも指定されている「石庭」ですね。室町時代後期は、芸能や一芸に秀でた者が多く活躍する時代で、彼らが東山文化(第6弾にでてきましたね)の担い手になるんですが、作庭分野においては、山水河原者(せんすいかわらもの)という賤民身分の集団が活躍するのです。身分としては低いけれども、優れた技術を持っている人はやっぱり存在するのですね。厳密な作者は不詳となっているのですが、大徳寺の庭園と同様、龍安寺のものも彼らが手掛けたとされています。「枯山水庭園」という形式で、岩石や砂利を組み合わせて自然の姿を絶妙に表現しています。筆舌に尽くしがたい風景となっていますので、是非一度は見に行っていただきたいなと思います。

本日は以上です。お疲れ様でした。

投稿者:江島 祥人

  • 役職
    英語科主任/英語科講師
  • 講師歴・勤務歴
    7年
  • 出身大学
    大阪市立大学経済学部
  • 特技・資格
    特に目立ったものはないです
  • 趣味
    音楽鑑賞
  • 出身地
    京都府
  • お勧めの本
    武器としての決断思考

受験生への一言
初めて出会う事柄に対して、出来る限り「考えて」みてください。自分の価値観と照らし合わせてみて、ああだこうだと「腑に落ちる」まで考えてはじめてそれが知識となり、皆さんの力となります。